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日本武尊と弟橘媛

公開日 2020年12月14日

更新日 2020年12月14日

日本武尊と弟橘媛ゆかりの地PR写真

 

令和2年は日本書紀編さん1300年

『日本書紀』は、天武天皇の命により編さんが始まり、養老4(720)年に完成した、日本で最初の国の歴史書です。伝説上の英雄「日本武尊(やまとたけるのみこと)」は、『日本書紀』と『古事記』に登場する人物で、本市には、日本武尊が亡くなった能褒野(のぼの)とその墓とされる能褒野御墓、そしてその妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)の生誕地とされる忍山(おしやま)神社があります。

日本書紀が完成してから1300年の節目の令和2年に市で取り組んだ事業や、二人の物語と日本武尊の最期にまつわる白鳥伝説をご紹介します。

 

鳥アイコン『日本書紀』と『古事記』

日本書紀 巻第七 と 校正古事記 中巻 の写真日本書紀は、養老4(720)年に完成し、令和2(2020)年に、編さんから1300年を迎えました。天武天皇10(681)年、天武天皇の命により編さんが始まり、およそ40年の歳月をかけて完成しました。これが、日本で最初の国の歴史書・日本書紀です。

日本武尊の物語は、日本書紀とともに古事記にも記されていますが、さまざまな違いがあります。例えば、名前や地名に使われる漢字が異なります。名前は、日本書紀では「日本武尊」、古事記では「倭建命」、亡くなった場所は、日本書紀では「能褒野」、古事記では「能煩野」です。日本武尊のイメージも、日本書紀では父である景行天皇に信頼される力強い武人ですが、古事記では父に疎まれた悲劇の英雄として描かれています。

 

鳥アイコン日本武尊と弟橘媛のものがたり

日本武尊の誕生

日本武尊は、景行天皇と播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)の間に双子として生まれ、兄は大碓皇子(おおうすのみこ)、弟は小碓尊(おうすのみこと)と名付けられました。この双子の弟・小碓尊が、のちに日本武尊と名乗るようになります。小碓尊は、成長すると見た目も良く、立派で、一丈(約3メートル)もの長身で大変な力持ちとなりました。

西の国との戦い

日本書紀における日本武尊の行程地の図小碓尊は、熊襲(くまそ)との戦いへ向かいます。この戦いでは、女性の姿となって相手を油断させる作戦を取り、知略をめぐらせる日本武尊が描かれています。

この作戦は、様子をうかがったところ、新築祝いをしていたことがきっかけでした。小碓尊は、髪をといて女性の姿になると、懐に剣をしのばせ、宴へともぐり込んだのです。美しい女性にひかれた熊襲は、隣に座らせ酒をつがせます。小碓尊は、作戦どおり相手を酔わせます。夜も深くなり、ついに小碓尊は剣を抜き、相手を討ち取ったのです。

また、この戦いで、相手の熊襲が自分よりも強かった小碓尊に対し、自分の名前である「タケル」を差し上げると言ったことから、「日本武尊」という名前が付きました。

東の国との戦い

次に、日本武尊は、蝦夷(えみし)との戦いへ向かいます。途中、叔母である倭姫命(やまとひめのみこと)にあいさつをするために伊勢神宮へ立ち寄り、剣を授けられました。この剣が、のちに「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれるものです。

さらに進み、相模国(神奈川県)から上総国(千葉県)へ行くために、今の浦賀水道を船で渡ろうとしたとき、日本武尊は、「なんて小さな海なんだ。飛び上がって渡れそうだ!」と軽口を言ってしまいました。すると、海は荒れ、乗っていた船は前へと進めなくなってしまいました。

同行していた妻の弟橘媛は、「これは海神の怒りです。私の願いは、あなた様の命の代わりに海へ入らせてもらうことです」と言い、自分の命で日本武尊が助かるのならばと海へと飛び込みました。すると、波は穏やかになり、海を渡ることができました。弟橘媛は、命をかけて日本武尊を救ったのです。

戦いに向かった先の蝦夷は、日本武尊の神々しさに、戦わずして従うことにしました。帰国の途についた日本武尊は、碓氷峠までやって来たときに弟橘媛をしのび、「ああ、わが妻よ」と悲しみました。

死への道

伊吹山から能褒野への行程図蝦夷を従えた日本武尊は、ふるさとの倭国(やまとのくに)へと歩みを進めます。その途中、伊吹山の荒ぶる神を倒しに山へ向かいました。

日本武尊は、山中で出会った大蛇が姿を変えた神であったことを見抜けず、また大切な草薙剣も持たずに山へ向かったため、山の神の怒りに触れ、病気になってしまいました。

それでもなんとかふるさとへ帰ろうとしたものの、「能褒野」で力尽きて亡くなってしまいました。日本武尊の死を聞いた父・景行天皇は、能褒野に墓を造らせました。墓へ亡きがらを納めると、日本武尊は白鳥となって飛び立っていきました。

 

鳥アイコン亀山市と日本武尊

明治12(1879)年、明治政府は、現在の田村町にある能褒野王塚古墳を日本武尊の墓と決定し、そばに日本武尊を祀る能褒野神社を創建します。また、野村四丁目には、日本武尊の妻である弟橘媛の生誕地とされる忍山神社があります。
日本武尊が死した場所は、愛する妻が生まれた場所でもありました。亀山市は、日本武尊にとって、まさに愛と死が交わる地であったのではないでしょうか。

能褒野御墓の写真 忍山神社の写真

 

能褒野王塚古墳は前方後円墳だった!

能褒野王塚古墳模型図平成25年、宮内庁書陵部が実施した調査によると、大きさは全長90メートル、後円部径54メートル、前方部長40メートル、前方部幅40メートル、後円部高8.5メートル、前方部高5.5メートルであることが分かりました。北勢地域最大の前方後円墳です。

 

鳥アイコン日本武尊・白鳥伝説三市交流

日本武尊の最期にまつわる伝説は、『白鳥(しらとり)伝説』といわれています。

大和朝廷全国統一のため、父である景行天皇の命令を受けて東西へ遠征した日本武尊は、東の蝦夷との戦いを終えて故郷である倭国(奈良県)への帰途、能褒野で病により没しました。日本武尊の魂は、その姿を白鳥に変え、ふるさとへ向かって飛び立ち、琴弾原(ことひきのはら) (奈良県御所市)に降り立ったのち再び飛び立ち、古市(大阪府羽曳野市)に舞い降り、ついに天へ飛び去ったと記されています。これらの地にはそれぞれ墓が造られ、「白鳥三陵」と言われています。

本市は、この伝説にゆかりのある大阪府羽曳野市、奈良県御所市と平成10年11月30日に都市間交流の合意を取り交わし、平成11年から市民交流を行っています

三市交流について詳しくは、日本武尊・白鳥伝説三市交流事業(内部リンク)のページをご覧ください。

 

鳥アイコン日本書紀編さん1300年関連事業

オリジナルジャンボ絵本「ヤマトタケル」の読み聞かせ
(9月20日・11月3日/歴史博物館、10月24日/市立図書館)

ジャンボ絵本の読み聞かせの様子歴史博物館「第35回企画展」に合わせて、市民活動団体「亀山絵本と童話の会」による読み聞かせが行われました。ジャンボ絵本は、歴史博物館と「亀山絵本と童話の会」が約8カ月かけて作り、縦90センチメートル、横120センチメートルで12場面あります。

野村證券株式会社津支店ショーウィンドウを活用した企画展示
(7月1日~8月31日)

野村證券での展示の様子地域貢献を目的に店頭ショーウィンドウを団体や自治体へ貸し出している野村證券株式会社津支店の協力を得て、本市の知名度向上を目指した企画展示を行いました。
 

市民参加型 亀山ミュージカル
(11月15日)

亀山ミュージカルの様子市にゆかりのある神話などを題材に、亀山市文化大使の小嶋希恵さん脚本の「~日本書紀編さん1300年~亀山・今・昔・物語」と市民脚本の「鈴鹿御前~ふたつの心~」が二部構成で上演されました。
 

歴史博物館 第35回企画展 日本書紀編さん1300年「ヤマトタケルーその愛と死ー」(9月19日~12月13日)

企画展ポスター日本武尊終焉の地である能褒野とその墓とされる能褒野王塚古墳、そして日本武尊の妻である弟橘媛のストーリーを紹介しました。

 

 

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