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史跡


能褒野御墓(田村町)

能褒野神社

  古代のロマンを彷彿させるヤマトタケルノミコトの墓で、ミコトが白鳥に姿をかえて大和に向か
 い飛び立ったという伝承があります。明治12年、内務省により「日本武尊御墓」と定められ、現
 在も宮内庁により管理されています。周辺には、能褒野神社やのぼのの森公園があります。



石井兄弟敵討碑(東丸町)

石井兄弟敵討碑

元禄14年(1701)5月9日、石井源蔵・半蔵兄弟は亀山城石坂門外で、父と兄の敵である赤堀水之助を討ち果たしました。この碑は、28年目にして仇討ちの本懐を遂げた石井兄弟敵討ちが、「元禄曾我」として歌舞伎や絵本などに取り上げられたことを顕彰し、兄弟が本懐を遂げた石坂門外に、亀山保勝会によって建立されました。なお、討たれた赤堀水之助の墓は野村照光寺にあります。


石上寺(和田町 1185)

石上寺

延喜15年(796)、熊野那智社の夢告をうけた大和国布留郷の住人、紀真龍によって新熊野三社が勧請され、この鎮護のため開基されたのが石上寺であると伝えられます。石上寺の名は、紀真龍の出生地に鎮座する石上神宮にちなむものです。 かつては壮大な伽藍を有し、その面影は寺に伝わる鎌倉時代から南北朝時代にかけての古文書群に偲ばれます。なお、これらの文書は県指定文化財に指定されています。(歴史博物館寄託中)


岩屋観音(関町坂下)

岩屋観音

元禄時代、旅人の道中安全を願い、岩の断崖をくりぬいて造られた。阿弥陀如来、十一面観音、延命地蔵尊の石像三体を安置している。


江戸口門跡(本町2丁目)

江戸口門跡

亀山宿東町に延宝元年(1673)に築造されました。外側に堀を巡らし、土塁に囲まれた内部は枡形を形成し、櫓や番所が置かれ、さながら小城郭の体をなしていました。城下入り口の番所と言うよりは亀山城城門の一つと解釈できるでしょう。現在はすべてが取り払われ、ほぼ直角に屈曲した東海道にかつての名残をとどめるばかりです。


片山神社(関町坂下)

片山神社

延喜式内社のひとつで、鈴鹿峠の中腹の木立の中にあり、あたりは神気に満ち、厳かに静まっている。地区の住民の氏神として厚い信仰を集めている。


加藤家長屋門及び土蔵(西丸町)

加藤家長屋門及び土蔵

[昭和25.12.1 市指定]

加藤家は江戸時代後期の亀山城主石川家の家老職を務めた家で、亀山城西之丸に屋敷地を賜りました。現在は屋敷の表門である長屋門とこれに連なる土蔵などが遺されています。長屋門及び土蔵は江戸時代後期の建築と考えられ、武家建築として県下でも希少な遺構として、亀山市文化財に指定されています。


亀山城多門櫓(本丸町)

亀山城多門櫓

[昭和28.5.7 県指定]

亀山城は天正18年(1590)岡本宗憲によって築城されました。 別名を「姫垣」を意味する「粉ちょう城(※)」といい、当初は天守もありましたが、堀尾忠晴が丹波亀山城の天守と間違えて取り壊したとの 伝承があります。 多門櫓は、天守台と言われる本丸高石垣上にあり、寛永9年(1632)頃に築造されたとみられます。三重県で唯一現存する城郭建造物として県史跡に指定されています。
 平成24年度に「平成の大修理」が完了し、創建当時の姿に復原されました。
(※)「ちょう」は「蝶」の「虫」篇を「土」篇に換えた漢字を使用します


京口門跡(西町)

京口門跡

京口門は、東海道亀山宿西端の固めとして、寛文12年(1672)に築かれました。門や櫓を構えた壮麗な姿は、「亀山に過ぎたるもの」とうたわれました。歌川広重の「保永堂版東海道五十三次雪晴」はここを描いたものです。


慈恩寺 木造阿弥陀如来立像(野村3丁目18-1)

慈恩寺 木造阿弥陀如来立像

[昭和12.8.25 国指定]

慈恩寺は、忍山神宮の神宮寺として神亀5年(728)に創建されたと伝えられています。本尊の阿弥陀如来立像は、像高163cmの一木造で、平安時代初期彫刻の代表作として、重要文化財に指定されています。


宗英寺のイチョウ(南野町4-47)

宗英寺のイチョウ

[昭和12.7.12 県指定]

樹齢600年以上と推定される樹高40m、幹周約8mの雌株で、地上数mのところから小枝を出し、幹から乳状の柱瘤が垂れています。 枝は東西15m、南北18mにおよび県内最大のイチョウです。昭和12年には、三重県の天然記念物に指定されています。


西の追分(関町新所)

西の追分

[県指定史跡]

関宿の西の入り口となる西の追分は、東海道から大和・伊賀街道が分岐していた。石柱には「ひだりハいかやまとみち」とある。


野村一里塚(野村3丁目)

野村一里塚

[昭和9.1.22 国指定]

慶長9年(1604)2月、徳川秀忠は、諸国の街道に一里塚を築くように命じました。野村一里塚もこの時築かれたものです。現在は三重県下で唯一原形をとどめる一里塚で、わが国の交通史を考えるうえで貴重な遺跡として、国史跡に指定されています。


東の追分(関町木崎)

東の追分

関宿の東の入口となる東の追分は、東海道と伊勢別街道の分岐点。鳥居は20年に一度伊勢神宮から移される。常夜灯・道標なども残っている。


遍照寺(西町524)

遍照寺

亀山有数の古刹で、本堂は旧亀山城二之丸御殿玄関を移築したもので、近世殿舎建築の希少な遺構です。本尊の阿弥陀如来立像、木造観音菩薩坐像、勢至菩薩立像は県下を代表する鎌倉彫刻として県文化財に指定されています。また、本堂内に安置される地蔵菩薩立像は平安後期の像で、延命地蔵として信仰を集めています。


露心庵跡(栄町)

亀山宿東端に位置する寺院です。この寺を建立した露心法師は、もとは桑名城主に仕える武士でしたが西町善導寺で仏門に入りました。その後、亀山城主であった石川昌勝に願って、古戦場の松林に友松庵を建て戦死者を供養したと伝えられます。その後、この庵は露心の名にちなんで露心庵と呼ばれるようになりました。


和田一里塚(和田町)

和田一里塚

野村一里塚とともに亀山市内に所在する東海道の一里塚で、慶長9年(1604)幕府の命で亀山城主であった関一政が築造しました。かつては塚上にエノキが植えられ、昭和59年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていました。現在の塚は、塚の跡地東側に近接する場所に往時の姿を模して復元したものです。